マスターは、とても優しい

料理をするときや洗濯をするときは時々心配して見に来てくれている
僕の服が一つしかないのは不便だといって、マスターの服を貸してくれる

何より、捨てられていた僕を拾ってくれた

優しい、僕のマスター。

 

「マスター、おはようございます。」

 

僕が拾われてから二週間が経った。
大学へ行っているマスターを起こすのが僕の一日の最初の仕事。
朝に弱いマスターはなかなか起きてくれないけれど、その日の一番最初に眼に入るのが僕なんだと思うと、嬉しい。

 

「マスター。朝ですよ」
「んー……ふぁ……」

 

あくびをして、体を伸ばしてマスターが起きる。
目蓋が開き、僕を見る眠そうな目。
何故か、どきどき、する。

 

「カイトー……手ェ貸して」
「はい。」

 

伸ばされた手を握ると、その手を引き寄せるように力を入れてマスターが身体を起こす。
柔らかいマスターの手を名残惜しく思いながらも放して、マスターに微笑みかけた。

 

「今日は、バイトはあるんですか?」
「無い…から、夕方には帰る。」
「わかりました。夕飯は何がいいですか?」
「和食。」

 

ぼんやりとした表情のマスターが洗面所へと向かうのを見送った。
二週間過ごして、マスターの食の好みは把握している。
和食が好きだというマスターは、その中でも特に煮物が好きだ。
今日の煮物は何にしようか、と悩んでいると、マスターが洗面所から戻ってきた。
テーブルであくびをするマスターの前に、朝食を運ぶ。

 

「どうぞ、マスター。」
「……ハムエッグ……?」
「昨日、ネットで見て覚えました。」

 

マスター好みの味付けにはしたものの、この味付けであっているか自信が無い。
眠そうなマスターが一口料理を食べたのを見て、思わず不安になってしまう。

 

「……うまい。」
「ほんとですか?…よかった。」

 

ほっとして思わず頬が緩む。
マスターが喜んでくれると、僕も嬉しい。
けれど、何故かマスターは僕がこういうと頬を赤くして拗ねたような顔になる。
何か気に障るようなことをしたのかな?と思って首を傾げると、なんでもないとごまかされてしまうのだけど。

 

「……カイトの笑顔ってなんかほっとする」
「え?」

 

まだ完全に覚醒していないせいか、マスターがぽつりと呟いた言葉は今まで一度も言われた事がない言葉だった。
思わず聞き返してしまったけれど、マスターは気付かないらしくもくもくと食べ続けている。
今言われた言葉を反芻して、記憶する。

どきどきと動悸が早くなった気がした

 

マスターは、とても優しい。
僕の事を大切にしてくれる。

 

「あ、カイト」
「はい?」

 

出かける直前に呼び止められて、首をかしげる。
玄関のドアに手をかけたまま振り向いているマスターを見て、少しだけ悲しくなった。
マスターが今からいなくなってしまうのだと思うとどうしようもなく、寂しくて

 

「やっぱ、歌いたい?」

 

マスターに聞かれた言葉に、僕は反射的に頷いた。
歌うことがボーカロイドの存在意義であり、そのために生まれたのが僕だ。
歌いたい。

この気持ちもプログラムなのかもしれないけれど

 

「あの、でも、無理はしないでください。マスターは大学とバイトがあって、大変ですから」

 

そういえば、マスターの部屋にギターがあった。
埃を被って、暫く触っていないようだったけれど、マスターはギターを弾けるのかな

マスターが、ギターを好きならば、マスターのギターに合わせて一緒に歌うこともできるのかな

 

(…できたら、幸せだろうなぁ)

 

マスターの言葉を歌にするのが僕の役目で、存在意義。
嬉しそうなマスターの顔を想像するだけで、僕は幸せになれる。

だから、今、マスターが悩んでいるような表情を見せていることは、とても心苦しい。

僕のせいでそんな表情をさせているのかもしれないと思うと、胸が締め付けられるように苦しい。
マスターが悲しんだり、悩んだりするぐらいなら、僕はいくらでも我慢できる。
マスターが笑ってくれればそれでいいんだ

 

「俺もさ、カイトが歌ってるとこみたいし…カイトの歌声とか聴いてみたいって思うわけよ」

 

照れたように頬を書きながら、マスターが呟く。
眉根は寄ったままで、眉間には皺が刻まれている。
けれど、それは照れ隠しのように思えた。

 

「だから、今日あたりなんか歌ってもらおうと思うんだけど」

 

いい?と訪ねてくるその言葉を断る理由は僕には無い。
マスターが言うのならば、いくらでも歌うのだから。

だけど、マスターが僕に選択する余地を与えてくれたことが、僕はとても嬉しくて

 

(どうしてこんなことで、僕は喜んでるんだろう)

 

一瞬頭が痛んで、何かが流れ込んだような気がする。
それはとても嫌なことだということがわかって、強制的にシャットアウトした。
これは一体何だろう。僕は今何を思い出したんだろう

 

(今は、そんな事はどうでもいい)

 

「歌います、マスター。貴方が望むなら、僕は貴方の為に歌います」

 

嬉しくて嬉しくて仕方が無いこの気持ちを、どうしたらマスターに伝えられるだろう。
幸せだとか嬉しいだとか、そんな言葉じゃ伝えきれないこの感情を、人ならばどうやって伝えるんだろう。
僕にはその手段が考え付かない。

これが人とボーカロイドの違いなのかな

 

 

 

 

 

Happiness