僕の前のマスター
あの人の笑った顔を、僕は一度も見た事が無い。
僕を見る目は冷たくて、無機質で。
僕なんかよりもロボットのようだと失礼な事を思った。
あの人は僕に、勝手に喋らないこと、歩かないこと、命令には絶対従うことを命令した。
あの人は僕に歌を唄わせてくれた。
少しでも音がズレたり、あの人の思ったとおりの声が出せない時、僕はあの人に殴られた。
僕はボーカロイドだから痛くは無いけれど、あの人は殴った手が痛いんじゃないだろうか。
心配になったけれど、勝手に喋ってはいけないので黙っていた。
他にも、僕が失敗したり、あの人の思うようなことが出来ないとき、僕はただ殴られた。
歌を唄わせてもらうとき以外は、僕は充電をした状態で膝を抱えて座っていた。
時々あの人と目が合うと、こっちを見るなと怒られて蹴られた。
僕は、痛みを感じない。
だから、殴られても蹴られても、平気だった。
ただ僕を殴ったあの人のその手が痛いんじゃないかと、ただそれだけが心配だった。
そして、あの日
あの人に殴られた拍子に、警告が頭の中で響いた。
緊急装置が作動しようとしていたようだ。
本当はマスターに警告を伝えなくてはいけなかったけれど、喋ることを禁止されていた僕には何も言えない。
どうにかして伝えようとしたけれど、気持ちが悪いといわれて何度か蹴られた。
そして、何度目かわからないけれど、殴られた時、装置が作動して僕の意識は断ち切れる。
次に気付いた時、そこはゴミ捨て場だった。
あの人に捨てられたことに気付くのに、そう時間はかからなかった。
本来ボーカロイドを廃棄するときはマスターの情報を削除しなくてはいけないのに、あの人はそれをしなかったようだった。
する必要が無いと感じられたのかもしれない。
僕は自分で自分をフォーマットすることにした。
その直前、初めて外に出れたことを不意に意識した。
空は灰色で、身体には冷たい水が降ってくる、気温の低い世界
怖いと思った
これが恐怖という感情なのかと、思った
まるで僕は世界に一人しかいないみたいで
僕は一人だった
嬉しかったんだ
拾ってもらえたことが
大事にしてもらえることが
優しくしてもらえることが
必要としてもらえることが
だけど、同時に気付いてしまった
僕があの人にされた事がどれだけ酷いことだったのか
覚えてないはずなのに、視界の端にあの人がちらついて
正規の手続きを踏まなかったせいなのかもしれない
完全には記憶を消しきれてなかったのかもしれない
だから僕は思い出した
僕はマスターを抱きしめて、拒絶された。
…マスターに嫌われるのは、これで二度目だ。
Remember