「おかえりなさい、マスター!」
そう言って俺を迎えたカイトはいつもどおりだった。
なのに、俺はその目を見れなくて
忘れろって言ったのは俺なのに、なんでこんなにも怖いんだ
熱量
「………馬鹿じゃねーの、俺」
湯船に浸かりながら、小さく呟いた。
言葉は反響して耳に残る。本当に、馬鹿じゃないのか俺は。
忘れろと言ったのは俺なのに、なんで平然としているカイトを見て傷ついてるんだろうか。
「……………。」
湯船に口元まで浸かって、息を吐く。
ぶくぶくと泡立った水面を見ながら目を伏せた。カイトを苦しめているのは俺だと思った。
多分それは間違ってないし、俺も考えを変えるつもりは無い。
カイトは俺の感情を知るべきじゃなかった。
俺がカイトの事をどう思っていたとしても、それをカイトに告げるべきじゃなかった。
カイトは俺のせいで壊れかけてしまった。だから手放さなきゃいけないと思った。
(……一回は、手放せないと思ったんだけどな)
俺のせいでカイトが苦しんでいるんだとしたら、それはとても悲しいことで。
アイツが幸せに笑うところが見れるだけで、俺は十分なんだから。暖まってきた身体の熱を感じながら、ふと天井を仰ぐ。
夢の中で水に落ちていったカイトは、どんな気持ちだっただろう。
どんな気持ちで、あんな悲しそうな顔をしたのだろうか。
そのまま目を閉じて、息を止める。
ポチャンと音を立てて、湯の中に頭まで入れた。
少し熱いお湯が、眼球の辺りをちりちりと熱する。
口を開くと、ぽこぽこと空気が漏れる音が聞こえた。
ドクドクと心臓の音が煩くて
(アイツは どんな気持ちで)
ボーカロイドの気持ちを知りたがるなんて、少し可笑しいんじゃないだろうか。
普通なら逆にボーカロイドが人の気持ちを知りたがるはずだ。
そう思って、ふっと小さく笑った。
(それだけアイツが人らしくなったってことなのか、それとも)
俺がアイツに入り込みすぎたのか。
ゴボッと言う音と共に、空気を完全に吐き出した。
起き上がろうと手を伸ばし、湯船の淵を掴む。
水面に顔を出して、熱から解放された唇を開いて大きく息を吸い込んだ。
「………何やってんだ俺。」
お湯の滴る髪をかきあげて、小さく溜息を付いた。
指先に視線を落すと、赤く染まっている。
少し長湯しすぎたかもしれない。
(……そろそろ上がるか)
ザッと湯船から立ち上がったときだった。
(え?)
歪む視界。
痛いほどに響く耳鳴り。
やばい、のぼせた。と理解するまでに時間は掛からず、俺は脚を滑らせて湯船の中に落っこちた。
+++
ドボン、と大きな音が浴室から聞こえた。
時計を見れば、マスターがお風呂に向かってからもう一時間経つ。
嫌な予感がよぎって、使い終わった料理器具の片づけを中断し、急いで浴室へと向かった。
「マスター?」
コンコン、とノックをしてみるが返事は無い。
念のため、リンとレンに氷とタオルを持ってくるようにお願いして、そうっと浴室の扉を開けた。
「マスター…!」
目に入ったのは湯船から上半身をだらりと外に出して、気絶しているマスターの姿だった。
赤く染まった肌と浴室の温度から考えて、のぼせてしまったのは明白だ。
急いでマスターを湯船から引き上げて、頬に手を当ててマスターを呼ぶ。
「マスター、僕がわかりますか…?マスター…!」
返事をしてくれない。
ぐったりと、力なくうなだれているマスター。まるで人形のようで
「マスター!」
血が凍った気がした。
完全に頭が真っ白になった僕は、気が付いたらマスターの頬を強く叩いていて
掌に感じるひりひりとした痛み。
ああ 僕は今、マスターを殴ってしまった。
マスターを、傷つけた
「……ん……カイト……?」
マスターがゆっくりと目を開けて、焦点の合わないままに僕を見る。
レンが持ってきてくれたタオルでマスターをくるんで、氷をマスターの口に含ませた。
「俺……のぼせた……?」
「一時間も入っているからですよ、マスター。」
声が思ったよりも冷静に出て、少し安心した。
マスターが、ふわりと笑う。どうして笑っているのか 僕には理解できなくて
「……マスター、大丈夫…?」
リンがひょこっと顔を出して、心配そうにマスターに話しかけた。
レンも同じ様に、隣に並んでマスターを見る。
マスターはそれに答えるように笑って、「大丈夫」と小さく呟いた。
「氷、もっと持ってきてくれるか…?」
「う、うん」
「水も持ってくるね、マスター。」
リンとレンが急いでキッチンにもどっていくのを見ながら、マスターはまた笑った。
「……マスター、ごめんなさい」
「え?」
マスターが僕を見て目を見開いた。
僕は一体どんな表情をしていたのかわからない。
自分が認識できないほどに、頭の中は混乱してぐちゃぐちゃで。
「マスターを、殴りました、僕」
「…ああ、それで目ェ覚めたのか、俺」
「どんなことがあっても、絶対にマスターに手を上げるなんてことは許されないのに」
ボーカロイドはマスターを傷つけてはならないようにプログラムされている。
それはいかなるときでも例外はないはずなのに、僕は
「ごめんなさい、マスター、僕は、あなたを」
「カイト……?」
「ごめんなさい」
言葉がまとまらないうちに、身体が勝手に動いた。
マスターを強く抱きしめて、その首筋に頬を寄せる。
暖かいマスターの身体を僕の身体で冷やすように
「怖かった、あなたが目を開けなくて、僕は頭が真っ白になった」
今も頭の半分が動いていない気がする。
動いているけれど、から回りしているのかもしれない。
いずれにしても、マトモに動いてない。
「あなたの声が聞けないのが、怖い。あなたがいなくならないのなら、僕はきっと何でもします。」
マスターがいなくならないのなら。マスターが失われないのなら。
たとえソレが許されないことであろうとも、僕を縛るものは何もない。
「お願いです、マスター。忘れろなんて言わないで。僕の全てはあなたが形作ったんです。あなたがいなければ僕はなににもなれません。あなたの望むボーカロイドにはなれません」
「え」
「マスター、あなたが笑ってくれるようにがんばります。だから教えてください。どうやったらあなたが望むようにあなたを忘れられますか?どうやったら僕は、あなたを幸せに出来ますか?僕は、どうすれば」
息なんか吸わなくても言葉は紡げるはずなのに、胸が詰まって言葉が一瞬出てこなかった。
それはマスターの驚いたような表情をみたからかもしれない。
唇が震えてきちんとした声が出ない。
完全に壊れた思考の中で、唯一僕が望むことは
「貴方の傍にいられる方法を、教えてください。」
水と氷を持ってきたリンとレンの足音が聞こえて、僕はマスターを放した。
マスターは僕を見て、まだ呆然と眼を見開いている。
急に頭が冷えた気がして、一気に呼吸が落ち着いた。息を吐くと、妙に熱っぽい吐息が口から抜けた。
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望むことは一つだけ