マスターがバイトへ出て、僕はそれを見送って

それから直ぐに、記憶の処理にとりかかった。

 

 

 

失意

 

 

 

マスターは僕に、忘れろといった。
ということは、マスターに好きだと言われた記憶を全て消してしまえばいいのだろうか。

 

(………忘れられない気がする)

 

何の確信も根拠もないが、唐突にそう思った。
パソコンとコードを繋げながら思うのは、どうしてだろう。

 

(好き、って言われた記憶を消しても、この感情はなくならない…?)

 

マスターを思うたびに感じる焦燥と激情。
好きで好きでしょうがなくて、自分だけのものに出来たらと願うほどの独占欲。
抑え込むと笑えない。抑えなくても笑えない。

本当の想い。

 

(……そういえば、マスターに好きって言われたとき…)

 

目を閉じて、記憶を探る。
蓄積された記録の中から、あの日のマスターの声を探し出し、再生した。

 

『プログラムに無いほど、強い感情だったんだって。』

 

(………そうだ、だから僕は)

 

一度ウイルスに侵されたこの体は、マスターとの大切な思い出をなくしてしまった。
それと一緒に何か大切なものも無くなって、僕は言い様の無い違和感を覚えて、でも思い出した。

記憶が無いのに、感情が残っていた。

忘れても忘れられない感情がある、なんて

 

(まるで人間みたいだ)

 

自分がボーカロイドだと言う事は誰よりも一番分かっている。
人にはなれないことも、わかっているのに

 

(………これじゃ、記憶だけ消しても駄目だ)

 

意識を浮上させて、現実の世界へと戻ってくる。
パソコンと繋がるコードを抜いて、どうしようかと考えをめぐらせた。
マスターの命令は絶対で、従わなくてはなら無い事。
なのに、僕はどこかで逆らってしまいたいと思っている。
忘れたくない、と。

 

(初期化するのが手っ取り早い方法だけど)

 

それでは、きっとマスターに違和感を感じ取られてしまう。
マスターは今の僕のままでいて欲しいと願っているはずだ。

 

(………?なんでそんな風に思うんだろう)

 

マスターにそういわれたわけではないのに、どうして

 

「お兄ちゃん!」
「わっ…!?リン、何?」

 

突然視界にリンが入ってきて、驚いて少し後ろに飛び退いた。
壁に背中を打ち付けて、鈍い音が響く。

 

「お兄ちゃん、長かったね。何してたの?」
「え、長いって?」
「もう夕方だよー?ずっとパソコンと繋がって…何を設定してたの?」

 

窓の外を見ると、既に日は暮れて薄暗くなっていた。
リンに何でもない、と言ってごまかして、夕飯の準備をするために立ち上がった。
考え込んで、何時間も潰してしまったらしい。
しかも、結局は何もしないまま目を覚ましてしまった。

 

(………忘れられません、マスター)

 

どうしても、どうやっても、僕にはこの感情を忘れる術が見つからない。

この命令だけは、聞けません。

忘れろと言うのなら、この感情の消し方を教えてください。

マスター

 

「ただいまー」

 

玄関からマスターの声が聞こえて、体が一瞬硬直した。
いつもなら、帰って来ることが何となくわかって、玄関で出迎えることが出来るのに。
慌ててエプロンをつけたまま玄関に向かった。

 

「おかえりなさい、マスター!」
「………お前、お玉持って来んなよ。主婦か?」
「え?あ。」

 

置き忘れた、と自分の右手が掴んでいるお玉を見て、かぁっと顔が赤くなってしまった。
マスターが笑いを堪えながら、僕の横を通ってリビングへ向かう。

 

一度も目を合わせないまま

 

「おかえりー、マスター。」
「おかえりなさい、マスター。」
「おー、ただいまー。聞けよ、今カイトがさー」
「わぁあっ!!マスター、言っちゃ駄目です!!」

 

会話だけは何時もと同じなのに、どうしてマスターは僕の目を見てくれないのか。
僕が記憶を消さないと判断したことを、知って居る?
それとも、忘れろといったのは、マスターが

 

(俺を好きじゃなくなったから------)

 

「っ……マスター、お風呂にしますか?それともご飯にしますか?」
「……カイト、それ、新妻の台詞。」
「………それとも、僕にします……じょ、冗談です、冗談ですよマスター!だから鞄は投げないでくださいっ!」

 

リンとレンがやり取りを見て笑う。
マスターが、怒ったように照れながら、僕を諌める。

だけど なんで違和感があるんですか

 

理解できない

違う

理解したくない

 

「風呂!夕飯はそのあと!」
「はい……何も殴らなくても……」
「何か言ったか」
「何でもないです。」

 

マスターに殴られた頭をさすりながら、夕飯の準備を続けにキッチンへ戻る。
キッチンの横の廊下を通って脱衣所へ行くマスターを、横目で見て、

 

(……なんで、そんな)

 

悲しそうな顔をしているんですか

 

(…聞きたいのに)

 

聞けない。今の僕には聞く術が見当たらない。
一つでも聞いてしまえば、きっと知りたくない答えまで知ってしまう。
マスターの気持ちが、分からない今は、何もかもが怖い。

 

(マスター、僕は)

 

出来た味噌汁の味見をしながら、マスターのことを考えていた。

 

 

 

 

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臆病なひとたち