例えばふとした瞬間にも
劣情
「マスター、おはようございます」
俺を起こしに来たカイトを見て、ぼんやりとした頭が覚醒する。
それと同時に、その笑顔に一瞬目が奪われて。
「今日は大学お休みなんですよね。」
「ん……今何時?」
「10時です。」
起こさないと、何時までも寝そうでしたから。と付け足して、苦笑気味に笑う。
その表情を、顔を腕で隠しながら横目で見て、胸が苦しくなった気がした。
それをごまかすように勢いよく起き上がると、頭を掻いてベッドから降りる。
「ご飯どうしますか?」
「んー…昼でいいや。」
「わかりました。」
にこにこと、嬉しそうに笑って洗面所に向かう俺の後をついてくるカイト。
大型犬を思わせるその仕草に、少し頬が緩んだ。
「カイト、俺、顔洗うから。リンとレンも起こしてこいよ。」
「あ、はい」
次にすべきことを提示して、カイトがリンとレンの部屋に向かったのを見てから息をつく。
あの事件以来、俺は勝手にカイトに対して薄く壁を作っていた。
何故か俺自身よくわからないけど、以前のように接することが出来ない。
(…多分、カイトも気付いてんだろーな)
それでも変わらず傍にいてくれるカイト。
俺はただ、カイトの無償の優しさに甘えているだけで前に進めていない。ばしゃ、と顔を水で洗って、タオルで拭いた。
目の下に隈が出来ているのに気付いて、小さく息をつく。
此処のところ、夜に眠れてない気がする。
「ますたー、おはよーぅ」
「おはよう、リン。……寝癖すげーぞ。」
とことこと歩いてきたリンに目を移すと、眠そうに目をこすっていた。
その髪はあらぬ方向に飛んでいて、酷い寝癖が付いていた。
「ほら、リン。僕が直してあげるよ」
「ん、ありがと、レン」
俺に代わって洗面所に入った二人を見て、頬が緩む。
仲のいい姉弟が、少し羨ましい。
(……俺、何かしてあげられるかな)
俺の事を好きだと言ってくれるカイト。
マスターとして慕ってくれるリンとレン。
それらは全部無償で注がれる、愛情。
(何か、してあげられたかな)
人に近づいていくボーカロイド。
マスターの思考を読み取って、望みどおりに最適化していく。
それならば、三人は俺の望みどおりに成長している。
とても速い速度で。
(……俺が置いていかれてるみたいだ)
リビングのソファーに身を沈めながら、ぼんやりと宙を見る。
カイトがこの家にやって来てから、俺は何か変わっただろうか。変わっていない気がする。
俺はカイトみたいになんの見返りもなしに愛情を注ぐなんてこと、出来ない。
(…………カイト)
俺を、マスターの枠を超えて愛してくれるボーカロイド。
そうなるように望んだのは、俺。俺が好きになったから、好きになってほしいと望んだ。
きっと自覚は無くてもそうだったんだろうと思う。
結果、カイトは無意識のうちにそれを叶えようとして、一時は暴走するほどに追い詰められてしまった。
(全部、俺のせいだ)
カイトにこんな感情を持ってはいけなかった。
今からでもまだ遅くない。
カイトをまた壊してしまう前に、消さないと。
「マスター?」
「!?」
ソファーにほぼ寝そべる形になっていた俺の顔を、背もたれの上から突然カイトが覗き込む。
驚いて起き上がると、俺の頭がカイトの顎に命中し、鈍い音を立てた。
「〜〜〜〜っ!!」
「あっ、ま、マスター、大丈夫ですか!?」
頭を抑えて悶絶すると、カイトが前に回っておろおろと俺の頭をなでてくれた。
その手は暖かくて、まるで人のようで。
「…だ、大丈夫……カイトは大丈夫か?」
「はい、僕は大丈夫です。」
安堵の息を吐いて、カイトを見る。
その表情は本当に心配そうで、今にも泣き出しそうだった。(なんでお前が泣きそうなんだよ…)
「大丈夫だから、カイト。そんな顔すんなよ」
「え…僕、どんな顔してますか?」
「泣きそうな顔。痛いの俺なのに、なんでお前が泣きそうな顔してんだよ」
からかい混じりにそう言うと、カイトは不意に微笑んだ。
軟らかく。優しく。
「マスターが泣かないから、僕が変わりに泣いてあげようと思って」
カイトはきっと冗談で言ったんだと思う。
だって言葉はクスクスと笑いが混じっていたんだから。なのに
俺はその笑顔と言葉に、不意に泣きそうになってしまった。
「馬鹿、お前が泣いても意味ないだろ」
「ふふっ、そうですよね」
クスクスと笑うカイト。
ああ、気付いてしまった。
(今更この気持ちを消そうなんて、無理だ)
何時の間にこんなに大きくなっていたのか。
カイトの存在が、今の俺を作るほどに大きくなっている。
きっと、コイツ無しじゃ生きていけないだろうと確信を得る程の衝動で。
「マスター!寝癖直った?」
「直ってるよ。」
「マスターにも見てもらいたいの!ね、マスター、直ってる?」
走って俺に抱きついて、リンが楽しそうに笑った。
微笑んで頭をなでてやりながら、直ってるよと言ってやる。
嬉しそうにリンが笑って、レンがむすっとしてこっちを見ていた。
「レン、おいで」
笑って手招きをしてやると、嬉しそうに近寄ってくる。
暖かい温もり
「ず、ずるいですよ!マスター!僕も!」
「お前…子供と張り合ってどうすんだよ」
「大人気ないよ、カイト兄さん」
「ねー、大人気ないよー」
「り、リンとレンまで…!」
カイトはこうなったら、と開き直って、リンとレンも巻き込んで俺の上にダイブする。
ぎゃああ、と悲鳴を上げながらも、俺は可笑しくて笑ってしまっていた。
(ああ、もう。今更手放すなんて出来ねぇよ)
三人をしっかりと抱きとめて、わずかによぎった不安をかき消すように、強く強く抱きしめた。
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それは 別れの予感