マスターの顔が、時々悲しそうに歪む。

そして、なきそうな顔で微笑みながら、好きだよ、って言ってくれる。

その度に、僕は不思議に思うと同時に、ずきっと不可解な痛みが胸に走る。

 

 

 

絶叫

 

 

 

買い物から帰ってくると、マスターはソファーで眠っていた。
買い物袋をキッチンにおいて、ソファーの横に座る。
マスターの寝顔はすごく綺麗で、僕はじっと見ていた。

マスターのまつげは凄く長くて、目を伏せたり、こうして目を閉じていると凄く綺麗だ。
頬はきっと触ったら柔らかいんだろうな。
唇が薄く開いていて、そこからすうすうと寝息が聞こえた。

柔らかそうな、くちびる

もし、キスをしたらどんな感触がするだろう

 

「……?」

 

マスターにキス、なんて、なんで考えたんだろう。
頬が火照っているのが分かって、首を振って頭を冷やした。
そもそもキスは男の人と女の人がすることで、男同士の僕らがすることじゃないのに。

なのに、どうしてこんなにも

 

「カイト、何やってんだよ」
「!」

 

気が付くと、マスターが薄っすらと目を開けて僕を見ていた。

ああ 綺麗な目

長いまつげが縁取ったまぶたが、ゆっくりと上下する。

こくり、と、自然とのどがなった。

 

「人の寝顔見るなんて趣味悪いぞ」
「あ、すみません……」
「何考えてたんだよ」

 

マスターの目が、視線を僕に流す。
その目に、僕は焼け付くような感情を覚えた。

じりじりと胸が熱い気がして、そっと胸に手を当てる。
だけどそこは熱くはなく、体が覚えた感覚であることに気がついた。

 

「マスターに、」

 

言っていいのだろうか。
マスターにキスがしたくなったと、言ってもいいのか?
言ってしまったら、もう戻れない気がする。
ただ、茶化すように言ってしまえばいいのに、どうして僕は笑えない?

 

「キスがしたいと思いました。」

 

マスターの目が大きく見開かれる。
僕はマスターの目をじっと見つめた。
いつだったか、こんな感情を抱いたことがあった。
あれは、マスターが同僚の人に連れられて帰って来た日だ。

あれ?

この日だけ、だっけ?

 

「……何、言ってんだよ、馬鹿」
「すみません、マスター」

 

マスターの顔が、悲しそうにゆがめられる。
ああ、僕はきっと言葉の選択肢を間違えた。
この時なんと言えばよかったんだろう。

 

『マスター…』

 

ノイズ交じりに聞こえた自分の声

何時、僕はこんな声でマスターを呼んだ?

いつも呼んでいるけれど、こんな、

こんなに狂おしい声で言ったことはなかった

 

「カイト、おいで」

 

マスターが僕に手招きする。
ああ、たしかこんなことが前にもあった。
あの時は、僕がアイスを持っていて

そして、どうした?

 

「…?カイト」
「あ、はい」

 

膝立ちでマスターに近寄ると、マスターは僕の服の襟をぎゅっと引っ張った。
前によろめくと、マスターの腕が僕の首に絡みつく。
今回引っ張られたのは腕ではなかった。

あれ

どうして今、腕じゃない、なんて思ったんだろう。

 

「カイト…」

 

ぎゅ、と首に回された手に力が入る。
耳元で囁かれた声に神経が集中する。
マスターの背中に腕を回したいのに、何故だかそうしてはいけない気がする。

 

「好きだよ」

 

マスターの声は、似ていた。
いつ言ったのかもわからない、僕の声に。
声の高さやそういったことではなく、込められた感情が似ていたんだと思う。
どんな感情が込められていた?

何を僕は思っていた

ああ、それよりも、早くマスターに返事をしないと

マスターが、きっと僕の言葉を待ってる

言わないと、早く

 

ぼくは あいしてます って

 

「………カイト?」

 

反応の無い僕が心配になったのか、マスターは顔を僕の肩から顔を離した。

 

「マスター」

 

ざざ、とノイズが入る。
この音は聞き覚えがある。すごく怖い音だった。

だけど視界は鮮明だ なんでこんなことを思う?

思考が混乱している

僕は何を思っているの

マスター

 

「ごめんなさい」

 

一言つぶやくように言った声は、ひどく低くてかすれていた。

ぶつん、と頭の中で音がする。

次の瞬間、僕は衝動のままにマスターを強く抱きしめた。

 

すきだ

 

好きだ、好きだ、好きだ、好きだ

 

いつからか、いつだったか、こうして抱きしめて叫びたいと思ったことがあった

いつだか思い出せないけれど、感覚の全てが叫んでいる

僕はこの人が好きだ、好きなんだ

マスターの全てを僕が取り込んでしまいたい

だけどマスターを壊したくなくて僕はずっと我慢してた

マスターが笑っているのを見ているだけで僕は幸せだと思っていてだけど

だめだ

 

「か、いと?」
「マスター、マスター

 

好きです、大好きですマスター。

どうしてマスターが好きなのか思い出せないけれど、好きなんです。

マスターに抱きしめられると胸が痛くて幸せで、

貴方の全てを知りたくて。

だけど僕はそれを悟られたくなくて我慢してたんです。

ただ、貴方に嫌われたくなかったから。

僕は何も覚えてないけれど、残った感情だけは覚えてるんです。

ねえ、マスター、この感情はなんなんですか?

僕は、壊れてしまいましたか?」

 

一気に言うと、マスターが僕の腕の中で身じろぎしたのがわかった。
だけどもう離したくなくて、抱きしめる腕に力を込める。

もう離したくない なんて、まるで一度手を離してしまったことがあったみたいだ

どうしてそう思うのか、根底の理由が分からないのに感情だけが残っている。
どうして僕に記憶が無いのか、心当たりは一つしかなくて
ああ、きっと僕はウイルスで侵された時に記憶までなくしてしまったんだ

離してはいけないものまで離してしまったんだ

 

「カイト、お前、いつもそんなこと思ってたのか」
「はい、ずっと。いつからかは覚えてません。でも、ずっと前から」

 

マスターとすごした日々の一部がぽっかりと抜け落ちていて、覚えているのはその部分で感じた激情と焦燥。
その意味は今でも分からないけれど、言わなくてはいけないと思った。

 

「…カイト、少しでいいから、ちょっと力緩めろ。苦しい」
「あ…ごめんなさい」

 

腕の力を抜くと、マスターが僕の体から顔を離して、僕の顔をじっと見た。

 

「カイト、あのな。俺、お前に酷いこと言ったんだ」
「酷いこと?」
「うん。お前、俺の事好きって言ったんだけど、それは唯のプログラムなんじゃないかって。」

 

どくん、と心臓が大きく波打った気がする。
ああ、この感覚も覚えがある。
体中の何もかもが凍りついたような感覚があるけれど、でも何故か怖くはなかった。
もしかしたらこの先を知っているからかもしれない。

 

「でも、プログラムじゃなかった」
「え」
「プログラムに無いほど、強い感情だったんだって。カイトのCPUが耐えられないほど」
「…マスター」

 

マスターの僕の服を握る手に力が篭る。
なんだかマスターが泣き出しそうに見えて、僕は少しだけ背中に回した腕に力を込めた。

 

「俺がカイトの感情を否定したから、きっとバグが起きたんだ。カイトがさっき俺に話したようなことを溜め込んでたから」

 

ごめん、とマスターが小さく呟く。
たとえそうだとしても、僕はマスターをうらんだり憎んだりなんてしてないし、むしろ嬉しいぐらいだ。
だって僕は、人と同じ感情を生み出したんだから。

このことを伝えようと唇を開いたとき、それをさえぎるようにマスターは早口で言葉を紡いだ。

 

「それを知って、記憶をなくしたカイトが帰ってきたときわかったんだよ。俺、お前が好きなんだ」

 

マスター、今

 

「お前が居ないとなんも手につかないし、俺の事をマスターとしてしか好きじゃないお前が俺に触れるたびに悲しかったんだ。」
「…マスター」
「俺、人間だからカイトみたいな純粋な恋なんて出来ない。キスとか、もっとそれ以上のこととかしたいって思うかもしれない。

それでも、カイトは俺を好きだって言ってくれる?」

 

そんなの、決まってるのに

 

「…マスター、たとえ僕が壊れても、貴方の傍に置いていてください。」
「え…カイト」
「貴方の傍にいたいです、マスター。

僕はマスターを愛してます」

 

笑って見せると、マスターは顔をゆがめて、ぼろぼろと泣き出してしまった。
ああ、また泣かせてしまった。

なのに、どうしてだろう。

嬉しくて嬉しくてしょうがないんだ。

 

 

 

-------------------------------------------------------
記憶をなくしたカイトは、違うけど同じ人だった。