真っ暗な世界に一人で取り残されているような感覚だった。
喪失
何もない世界。ただ闇が広がる世界。
僕は僕という形も保ってなくて、自分の手を見ればそれは解像度の低い画像のようだった。
周りには使いたいものがたくさんあるのに、それを使う術がわからないような感覚。
例えるなら、本があるのに、文字が読めないような感覚。それが突然浮上し、光に満ち溢れた世界へと変わった。
自分の手を見ようとすると、それらはちゃんとした手の形になっている。
だけど現実での僕の体は動いていないことは分かっていて、これはデータの中であることも分かっていた。
それでもちゃんと自分という存在があるということは、僕を安心させてくれた。
しかし、このデータだけの世界を僕は知っている。
気が狂いそうな闇の後、突然真っ白な世界に変わる。
その白い世界の中心に、光があって
「……此処は、研究室ですか」
やはり、マスターにはどうすることも出来なかったんだろう。
無茶なお願いをしてしまったことを後悔しながら、光に向かって聞いた。
音声プログラムが入ってきて、僕は正常に作動していることがわかった。
『そうだよ。おかえりカイト。』
「僕を、マスターの元へ帰してください。」
『それはまだ出来ない、カイト。君はまだ完全じゃない』
僕がデータの中という事は、まだ体のほうへは回路をつなげていないのだろう。
でもこうして正常なデータの中にいるということは、ウイルスを除去できたという事だ。
それなのに完全じゃない、なんて
「完全なものなんてこの世にはありません。」
『君は良いマスターの元へ届けられたようだね』
「僕を、マスターの元へ帰してください」
きっと、一人で寂しいはずだ。
マスターはああ見えて、結構人に甘えているところがあるから。
一人にしてしまうと、食事もろくにとろうとしないし、睡眠だってぎりぎりまでとろうとはしないから。
僕が傍に居ないと、マスターはダメなんだ。
『…カイト、君はバグを起こしている』
「バグ?」
目を見開いた。
僕がバグを起こしているのは、きっとウイルスのせいだろうと思っていたのに。
『確かにウイルスにもかかっていたんだけど、それのせいでバグが広がったみたいだ』
「…………」
『それを、直すために』
この後研究者の人が発した言葉に、僕は何も考えられなかった。
『君の記憶の一部を消したいと思う』
「え………?」
『どうやら原因は記憶にあるようだから。正しくは、記憶じゃなくて記録なんだけど』
記憶が、消される?
一部とはいえ、マスターと過ごした日々を、僕は忘れてしまう?
どうしてどうして?何で?僕とマスターの過ごした時間に何の問題があったの?なんで?どうして?
そう思った瞬間、データの世界がざざ、というノイズと共に歪んだ。
光が揺らめき、再び正常に戻ったのは僕がそれに気付いたときだった。
『それだよ。それがバグなんだ』
「それって、どれですか」
『君がマスターを思う気持ちが、プログラムに無い感情を生み出してしまったらしいね』
それが負荷をかけていると、研究者は言った。
僕の気持ちの中に、プログラムには無い感情がある?
それが負荷をかけた?もしかして あの胸の痛みが?
『さあ、カイト。もう一度眠ってごらん』
「嫌だ!」
嫌だ、嫌だ、嫌だ
ざざ、とデータの世界が再び揺らぐ。
絶対に、この気持ちはなくならないとマスターに言ったんだ
光から音声プログラムが入ったけれど、それを拒絶した。
絶対に、マスターを一人になんかしないと思ったんだ
バチッ、と、どこかが弾けた音がした。
この気持ちは、僕にとって、きっと
光が消え、唯の白い世界が広がり、生み出された歪みから闇が侵食してきた
きっと、歌よりも何よりも大事なものなんだ
マスターを誰よりも何よりも僕はずっと愛 し て
「おはよう、カイト。気分はどうかな」
まだはっきりと意識が覚醒していない。
ぼんやりと前を見ると、見慣れた僕を作った研究者の人が居た。
「それにしても、君のマスターと同じマンションに引っ越していてよかったね。おかげで直ぐにマスターの所へ戻れるよ」
「…マスター……」
ウイルスにかかってしまったせいで、マスターを一人にしてしまった。
目を伏せると、ぽん、と頭をなでられた。
一瞬、体が固まる。
「ああ、ごめん、驚かせたかな?」
「あ、いえ。ただ少し、何か……」
「何か、思い出したかな?」
「……いえ、気のせいでした。」
はやく、帰らないと。
マスターがきっと心配して僕を待ってる。
何より、僕がマスターに会いたい。大好きなマスターに、はやく会いたい。
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「愛してる」→「大好き」ちなみに研究者さんはマスターと同じマンションに最近引っ越してきたばかりです。
ちょうど、”経験”の頃に。(ぁひとまず此処までで一つの区切り。