今日は、とても珍しくマスターの機嫌が悪いらしい。
リビングで、捨てられた子犬のようになっているカイト兄さんをリンと一緒に慰める。マスターは、とてもピリピリした様子でコーヒーを飲んでいた。
それが恋だから
「あ、あの、僕、何かしましたか?マスター。」
「したから怒ってんだろーが!」
これで、この問答を繰り返した回数は7回になる。
時間にすると約1時間。
マスターとカイト兄さんは、この会話を延々と続けているのだ。
「リン、マスターはどうしたんだろうね。」
「すごく珍しいよね。マスターがあんなに怒るの。」
僕とリンは、膝を抱えて座りながら、その二人の様子をじっと観察している。
この二人は、いつもはとても仲がいい。
マスターの頭を兄さんがなでたり、兄さんの頭をマスターがなでたり。
俗に言う「いちゃつく」という行為を毎日しているのが普通なのに、今日は違った。マスターの大学へ、兄さんが忘れ物を届けに行ったことから全てが始まったらしい。
兄さんと一緒にマスターが帰ってきた時には、既にこの状態だったのだ。
マスターはカイト兄さんとの会話に一生懸命、というか頭に血が上ってしまっていて、服を着替えることも忘れている。僕はマスターの私服かっこいいね、なんて会話をリンとしつつ、二人の様子をじっと見ていた。
「大学に来んなって、前に言ったよな。」
「でも、マスター、あのレポートの提出期限は今日だって言ってたじゃないですか」
「そうだけど、何があっても来んなっつの。持って来てくれたのは助かったけどな、」
「迷惑でしたか……?」
「そういうんじゃなくて、来るなっつったのに来たから怒ってんだって!」
そして会話はまた最初に戻っている。
えんえんとループを繰り返すこの二人は、いつまで続けるつもりだろう。
マスターの怒りは収まらないようだし、いい加減カイト兄さんも苛立ってきても可笑しくないはずだ。
けれど僕等ボーカロイドは、マスターに逆らうようなことをすることは禁じられている。
つまり、いわゆる「逆ギレ」というやつは兄さんには決してできないことだ。
だから、大丈夫…と言っていいのだろうか。
「レン、どうしてマスターは怒ってるんだろうね。」
「さあ………。」
リンと一緒に首を傾げる。
兄さんはもう泣きそうになっていて、マスターも少し苦々しい表情になっている。
そこまで二人とも辛くなるなら、マスターも全部話してしまえばいいのに。
どうして大学に来てはいけないのか、それが一番兄さんが聞きたい事なのに、論点がそこに行くとマスターははぐらかしてしまう。
「僕に知られたく無い事とか……あるんですか?マスター。」
「べ、別にやましいことじゃねーし……」
「あるんですね?」「……なんか、まずいんじゃない?コレ。」
「………険悪な雰囲気だね。」
兄さんの言葉にマスターが口ごもった瞬間、兄さんの表情が泣きそうなそれから一変した。
端的に言ってしまえば、兄さんが怒っている。
形勢は逆転し、マスターが責められる立場になった。
リンと顔を見合わせて、それから兄さんとマスターに同時に視線を移す。
「なんで俺には知られたくないんですか」
「だ、だから、別に悪いことじゃ……」
「知りたいです、マスター。全部。」
「ちょ、落ち着けカイト、だから」
カイト兄さんにはスイッチが入ってしまったらしい。
ものすごく真剣な表情で、マスターの肩をしっかりと掴んだ。
どうしよう、止めたほうがいいんだろうか。
もう一度リンに視線を移すと、リンは立ち上がっていた。
「レン、行こっか。」
「え……リン?」
「いいから、ホラ立って!」
リンに引っ張られて立ち上がり、リンに促されるままに部屋を出る。
どうして僕等が部屋を出るのか分からなくて、首だけ振り返ってリンを見た。
「どこに行くの?」
「私達の部屋。」
「どうして?」
「私達が居ると、喧嘩が収まらないでしょ。」
「なんで……あ、もしかして」
リンは僕の言葉に頷くと、背中を押す手を下ろした。
支えを失って一瞬よろめいたけれど、直ぐに体勢を立て直してリンと向き合う。
「アレ、恋人同士の喧嘩だもん。私達は居ちゃいけないの。」
「……恋人っていうより、夫婦に近いけどね、マスターたち。」
先に気付いたことでお姉さんとしての自信を表したいのか、胸を張ってリンが言った。
それに小さく付け足すと、リンがむすっとしたような表情になる。
でも、やっぱり恋人というよりは夫婦だろう。
カイト兄さんは料理が上手で、まるで新婚の妻のようなことをしているし、マスターはなんだかんだでお父さんみたいだ。
「僕達がいるから、なおさら所帯じみてるんじゃない?カイト兄さん。」
「………そうかも。」
あの二人の子供というポジションにあたることになる僕達は、カイト兄さんに随分と世話を焼いてもらっている。
マスターは歌を歌わせてくれたり、歌い方を教えてくれたりする分にはまさに「マスター」といった感じだけれど、身の回りの事は兄さんがやってくれているし、教えてくれている。
そう思うと、やっぱり兄さんは奥さんのようだ。
「でも、もし夫婦だとしても、お母さんはマスターの方だよ。分かる?レン。」
「どうして?兄さんの方が料理とか洗濯とかしてるのに。」
「だって、マスターの方が……」
リンが答えを言いかけた時、リビングのドアが勢い良く開いた。
僕達は廊下で話をしていたので、その音に驚いてリビングの方を見た。すると、顔を真っ赤にしたマスターが、僕達を見てあからさまにうろたえた。
「マスター?どうかしたんですか?」
「えっ、あ、いや、何でも……あったけど、何もなかった。うん。何でもねぇ!」
若干意味が通じないようなことを言いながら、マスターは顔のほてりを覚まそうとしているのかはたはたと顔を仰いでいる。
どうしたんだろう、と思ってじっと見ると、ますますマスターの顔が赤くなった。
「な、何?レン。なんかついてる?」
「いえ、何も……」
「マジ?良かった……って、良かったじゃねぇ!!リン、レン、俺風呂入るから。あ、あと、カイトには当分アイス食わせんなよ。」
そういうと、顔を真っ赤にしたままのマスターは忙しなく脱衣所へと入っていった。
それから数秒して、「やっぱり!!バカイトが……ッ!」と声が聞こえて来たけれど、リンに引っ張られて意識をマスターから外す。リビングに戻ると、兄さんが壊れていた。
壊れている、というか、可笑しくなっている。
どこかふわふわしているような…嬉しそうな顔なのは間違いないが。
「……兄さん?」
「え……あ、何?レン。」
「お兄ちゃん、アイス当分抜きだってー。」
「えぇっ!?リン、それマスターから聞いたの?」
「うん。お兄ちゃんが馬鹿だからって言ってたー。」
「うっ……そ、そんな……いや、でも本望っていうか……」
ブツブツと何かを言っている兄さんは、大好きなアイスを禁止にされたのにそんなに落ち込んでいるようには見えなかった。
寧ろ、嬉しそうな顔をしている。
「……兄さん、マゾ?」
「ちょっ……レン、どこからそんな言葉覚えたのよ!違うの、お兄ちゃんはマスターといちゃいちゃできて嬉しいだけなの!」
「リンはなんでわかるの!?」
リンの台詞に顔を真っ赤にした兄さんが、慌ててリンの口を塞いだ。
けれどその言葉を聞いて全てを察するのは難しくなく、僕は「あぁ……成る程。」と小さく呟いて、兄さんのことをじっとみた。
(つまりは、犬も食わないなんとやらだったというだけなのか)
周りを巻き込むという点において、兄さん達はバカップルなのかもしれないとぼんやりと答えに到達する。
それが恋というものなのだと兄さんに語られながら、リンと顔を見合わせて溜息をついた。
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長編連載カイマスで、夫婦喧嘩をリンレン視点でとのリクエストでした。
原因編として後ほど小噺を追加します(笑)