マスターが小さな咳をしている。
これで一時間のうちに29回目だ。
ウイルス
「マスター、熱を測ってください。」
「は?何で?」
「先程から咳を繰り返しています。」
マスターに体温計を差し出すと、押し返されてしまった。
いらない、という意思表示だろうけれど、そういうわけにはいかない。
せめて風邪薬は飲んでもらわないと。
「風邪薬を飲んでください」
「いやだ。」
「……どうしてですか?」
「薬、嫌いなんだよ」
げほっ、とまた咳をするマスターを見て、眉根を寄せる。
体調がコレ以上悪くなることよりも薬が嫌だというマスターの基準は、到底僕とは違っているようだ。
何よりもマスターを重んじるからこそ、こういう思考に至るのだろうけれど。
「仕事はまだ終わらないんですか?」
「あとちょっと。……30分もしたら終る」
「終ったら眠ってください。昨日から一睡もしていません。」
「わかってるって。」
マスターは言わなければ、ギリギリまで寝ようとしない。
寝不足な状態では身体の抵抗力が落ちてしまい、簡単に風邪を引いてしまう。
最悪の条件が揃っている今、マスターが健康体だとどうして言えるだろうか。
「けほっ……」
「……マスター」
「大丈夫だっつってんだろ。」
苦笑いをしてくしゃりと俺の頭をなでる。
暖かなマスターの掌に違和感を覚えて、思わずその手を握ってしまった。
マスターの手はいつも、冷たくて驚くのに。
「マスター、やはり熱があります。早急に休んでください。」
「あのな、仕事あんの。俺は。終らせないと休めねーの。」
「僕にも手伝わせてください。そうすれば少しは早く終るはずです。」
そうすれば、マスターが休む時間ももっと作れるだろう。
マスターも仕事が楽になるし、いい提案だと思ったけれど、マスターは渋い顔をした。
「いいよ、俺一人でやるから。」
「どうしてですか……マスター」
「俺の仕事だからだよ。いいから、カイトはカイトのやることしてろ。終ったらちゃんと寝るから。」
な?と宥められて、僕は頷くしかなくなった。
マスターの部屋を出て、居間に戻る。
ソファーの上に座って、音を紡ぐ。
新しくマスターがくれた歌を反芻し、覚えこみ、歌にする。
けれど、コレはアップテンポの歌なのに、今の僕にはスローテンポでしか歌えない。
マスターが気になって仕方が無い。
(どうして、マスターはいつもあんなになるまで自分を追い詰めるんだろう。)
そんなに仕事が大切なんだろうか。
前に一度聞いてみたことがあった。
その返答は、「仕事がなきゃ金もはいらねーし。大事だろ。」といったものだったけれど、僕にはそれだけではないように思える。例えば、その仕事を通して何かがある、とか。
(……僕の知らない、マスター…)
仕事の事について、僕は詳しく知らされていない。
書類をパソコンで整理したり、プログラムを組む仕事だとは言われているけれど、それ以上は何も知らない。
何故在宅で仕事が出来るのか。
月一で出社すると、何故いつも疲弊しているのか。
何故、疲れて返ってくるのにどこか満足気なのか。
(……いやだ。)
マスターが僕の居ないところで、僕じゃない人と一緒に、僕といるときよりも楽しそうにしているなんて。
耐えられない 許せない膝を抱える手にぎりっと力が入る。
いつも疲れて寝不足になり、病原菌に対する抵抗力も衰える。
そして簡単にウイルスに侵入を許し、徐々に侵されて行くのだ。
(僕、以外に)
マスターを苦しめているものの全てを排除してしまえたらいいのに。
……そうしたら、僕も消えるのかもしれないけれど
不意に、どさりと何かが落ちる音がして顔を上げた。
音は、マスターの部屋から聞こえた。
「……マスター?」
マスターの部屋まで行き、扉を開けると、そこには
「マスター…!!」
蒼白な顔色で、倒れているマスターがいた。
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長編がリクエストということで、少し分けることにしました。
大体前・中・後編の3つで終る予定です。